ごあいさつ 〜 時代を先駆けた村上安吉によせて 〜

 

本展示では2014年のオーストラリア初演の演劇 『Yasukichi Murakami – Through A Distant Lens』 の創作過程で収集された村上安吉(1880-1944)の写真や記録の一部を紹介しています。明治時代にオーストラリアに移住した写真家、実業家、そして発明家でもあった村上安吉の生涯を物語る資料から、故郷を離れた日系移民の立ち向かう勇気、立ち直る逞しさ、家族へのまなざし、そして昔も今も変わらない人間の探求心と情熱を感じとっていただければ幸いです。

村上安吉は、1897年に和歌山県から16歳の若さでオーストラリアへと渡り、西オーストラリアにて西岡商店に雇用されました。そこで安吉は英語、商法、海事法を習得し、雇用主の妻、西岡ヱキから写真技術を学びました。1901年に夫が急死すると、ヱキは西岡の事業を受け継ぎ、その業務を安吉とともに広げます。4年後、二人はブルームの登記所に婚姻届を出しました。この頃から安吉はブルームの日本人コミュニティのリーダーとして活躍しはじめます。二人の住むこの町は、当時真珠貝採集産業のメッカでした。

サイクロン被災で困難に陥った見ず知らずの真珠採集業者、キャプテン・A.C.グレゴリーに融資したことがきっかけとなり、安吉はグレゴリーのビジネスパートナーとなりました。グレゴリーとの繋がりにより、安吉は当時の階層化社会では一般の日本人には得られなかった特権を享受し、グレゴリーと真珠産業に従事する日本人とを繋ぐパイプ役を務めました。二人は真珠採集船や乗用車を購入し、酒場やタクシー業の経営、そしてブルーム初の養殖真珠の研究にも挑みました。

1920年に西オーストラリア生まれの日系人、しげの・テレサと再婚し、二人は9人の子供に恵まれます。大家族を養いながら、安吉は潜水服の改善に関する研究にも力を入れました。実験を繰り返し、1920年代後半には現代のスキューバ機器の先駆デザインの特許まで獲得しました。1935年、安吉は家族と共にダーウィンに移住し、グレゴリーの事業に参画しながら、ダーウィン初の写真スタジオを開業します。現地のスポーツチーム、警察、時には軍人のカメラマンとして活動しながら、日本人会のリーダーとしても活躍しました。

太平洋戦争が始まるとオーストラリアに住む日本人・日系人は敵性外国人として抑留されます。安吉も家族とタツラ収容所へ送られ、収容所内でもリーダーとして貢献しました。1943年には抑留されていたために潜水服の特許を更新出来ず、権利を失いました。同じ年に、後にスキューバの発明家と呼ばれるジャン・イヴ・クストーとエミール・ギャナンが安吉の発明と殆ど同じ仕組みの特許を取得します。翌年の冬、安吉は終戦を知ることなく、慢性心筋炎のため、その生涯を閉じました。

安吉が一生をかけて撮り続けた写真を収集しデジタル化することで、より多くの方の心に、先駆者、村上安吉の夢や希望を蘇らせることを願いながらこの展示をまとめました。

 

 

金森マユ
キュレーター
写真家